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伝統行事について(立岩地区)

猪木の弓祈祷

新春の風物詩!作物の豊凶を占う

新春の風物詩!作物の豊凶を占う

松山市北東部、高縄山腹の標高約350mにある猪木地区。住民わずか数名というこの小集落で、400年以上にわたって受け継がれる伝統行事「弓祈祷」が毎年1月6日に行われています。
 弓祈祷はもともと、農作の豊凶を占う「年占(としうら)」が起源とされ、前日の夕刻から2日がかりで行われていました。地区出身の男性2人の「お役者さん」と呼ばれる射手を選出すると、会堂にこもって精進し、翌日の行事終了まで帰宅は許されません。また、女人禁制なので、食事など一切の接待は「頭屋」といわれる5人の男性世話人が行っていました。昭和30年代に入ると、人口減少によりこのしきたりは簡略化され、弓祈祷は1日だけ、頭屋も1人となり現在に至っています。

 当日の朝、紋付羽織袴に着替えたお役者さんは、燗酒を飲み、それぞれが餅3つ入りの雑煮2杯を平らげると、小川を隔てた30m先の的に向かって矢を射ていきます。的は、「+」と書かれた直径1.5mの大的一枚と、「×」が書かれた直径0.8mの小的2枚で、2人の射手を「雄弓」「雌弓」と称し、1回射るごとに射場を交替します。まず、小的を12本ずつ3回射た後、大的に12本ずつ3回、最後に小的に3回ずつ、合わせて108本の矢を放っていきます。的射が終わると頭屋が大的を破り、地区民のうち男性は右回り、女性は左回りで的をくぐった後、氏神の河内神社に参拝したところで的射行事は終了となります。

しかし、これだけでは終わりません。さらに餅6つの雑煮を食べ終えると、今度は茶碗にてんこ盛りにした2合半の「かけ飯」と呼ばれる白飯がそれぞれに出されます。「飯を全部食べたら豊作、残したら不作」といわれ、食べ残しは忌み嫌われるため、お役者さんは必死で箸を動かし平らげていきます。かつてはかけ飯の量は5合とされていたが、「白米のご飯を腹いっぱい食べられるから」と、お役者さんを希望する人は意外に多かったといいます。
 的射は無病息災や悪霊退散、家内安全など除災を目的とし、かけ飯は五穀豊穣を祈願したものです。簡素な行事ではあるが、地区の安全を願う古式ゆかしい新春の風物詩・弓祈祷を、いつまでも継承していきたいものです。

猪木大魔

神輿の先払い役! 猪木大魔がなぜ神輿に供奉するのか?
「國津社御神璽漂流伝説」を追う

風早は地形的に見て山地における分水嶺の奥行が浅く、流路は急勾配で短小です。また地質が花崗岩の砂礫層となっているため、水流が地中深く浸透して、伏流水となり、普段は通水が少ないです。しかし、一度長雨台風ともなると立岩川は「暴れ川」に豹変し、常に洪水発生の危険を孕んでいました。そのため、先人たちは治水対策として、立岩川流路の変更や数多の災害克服に知恵を絞ることとなりました。
 こうした地勢を背景として、猪木大魔の起源となる「國津社御神璽漂流伝説」が伝えられています。
 瓢とは瓢箪のことで、水稲耕作民の世界とは異なる山や山人の信仰と深いかかわりを持った呪物です。また司水神の代表である龍蛇のように自由に伸び巻きつく蔓性植物で、みずみずしい実の成る瓢箪は、山よりもむしろ水界や水神の信仰とずっと深いかかわりを持っています。

一方の主役、鵜はどうか?
 『古事記』にある水門神の末裔の櫛八玉神が鵜になって海底に入って海藻を銜えて上がってくる説話がありますが、鵜と藻の繋がりは古代海人族の日常観察による発見の賜物です。
 以上のように瓢も鵜も共に地上と異界(天空や海底)をつなぐ神使いであったり、神を憑依させる呪具でした。そして陰陽の交歓による活力により生命が宿り、そこから伝播して万物の再生が図られるとする古代神道の考え方に沿う登場事物の設定がなされているのがこの國津神話の興味深いところです。
 登場人物の設定も2項対立の相関関係でできています。山人(猪木村青年)と海人(北本町住人)という2村の交流があり、両者が協力し合うことでご神体が無事に引き上げられたとするのです。このことは豊漁を得るには山をきれいに手入れをして、緑を永遠に保たねばならず、その栄養分が川を伝い海に流れてプランクトンがわき小魚が集まり、やがてタイやヒラメが舞い踊るといった循環型社会の教訓も隠されています。
 何よりも「御旅所神事」である、神輿を海に投げ入れてから引き上げる「おひきあげ」行事は、九州より風早へ初上陸した海人族・物部氏の故事を偲ぶものであろうと考えられます。
 なお、平成24年10月6日、中西内瑞穂会有志により、この「御神璽漂流伝説=猪木大魔のおこり=」が初めて映像化され、氏子内に正しく継承し、広く情報発信できたことは快挙であったと思われます。

「國津社御神璽漂流伝説」(國津社前宮司 井上忠衡氏談)

 その昔、氏神様の御霊代が洪水のために、大浜の沖合まで流され、海底に沈みました。その夜、某氏が夢を見ました。それは御神託で、次のようなものでした。
 「吾は國津の大神なり、今し大浜の沖合いに流れ海底に沈めり。その海上に瓢ありて、鵜の鳥とまりけり、汝、明朝沖合に舟を漕ぎい出し、吾をあげよ」
 某氏は、夜の明けるのを待ちかね、網を舟に積み、沖合に出ました。見ると神託のとおり瓢があり、鵜の鳥が止まっていました。「こは誠なり」と、網をどっと入れ、力の限り引き上げようとしますが、重くて重くて引き上らず、困りはてました。四方を見ると釣舟が一隻いました。「よし」とばかり大声で「来やれョ、来やれョ」と呼びました。
 釣人が近づくと、その体は頑健でした。目は爛々と輝いていますが、温厚な眼差し。某氏が頼もしく思い、引き上がらぬまでの話を語りました。某氏、釣人と協力し引き上げて見ると見事な御神体。大事とこれを「大浜の浜の真砂」に祓い清めて安置し、早速、神官を迎え祭事を行いました。祭事が終わって神官が言いました。
 「今後この処を神璽上昇の地と定め、御旅の御饗を捧げて祭り、祭事準備は某氏、子々孫々に到るまでこれに仕え、上昇に助力せし者、その部落の続く限り、その子種の続くきわみ、神輿の御供に仕え奉れ」と。その労を謝し、諸事を託して帰館しました。
 その某氏とは当時、北本町に住む野村忠人氏(現当主は昭治氏)のご先祖であり、協力した釣人は猪木部落の住民でした。
 その後、そこを神璽上昇の地と定め、お旅所として祭事準備一切を野村家が、猪木の住民は猪木大魔として神輿のお供役に、今なお奉仕しています。これが猪木大魔の起源でもあります。

全国の弓神事と猪木の弓祈祷

愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員
祭都風早祭人連合会顧問 大本 敬久

 全国の弓神事を大別すると、馬上から駆けながら射る流鏑馬(やぶさめ)と、地上で立って射る歩射(ぶしゃ)に分類できます。流鏑馬は武家の弓術に由来するもので、例えば鎌倉鶴岡八幡宮がよく知られています。馬場で馬を走らせながら3つの的に矢を放ちますが、流鏑馬は全国の神社祭礼に取り込まれ、現在でも各地で見ることができます。ただし、愛媛では流鏑馬は戦国時代以降、宇和郡領主の西園寺氏の影響で宇和地方周辺、つまり八幡浜市、西予市等で行われてきましたが、現在ではすべて廃絶しており、中世から受け継がれた事例はすでに見られなくなっています。

 一方、歩射はもともと宮廷の年中行事であり、流鏑馬同様に全国各地に見られますが、特に関東地方の利根川流域に濃密に分布しています。ここでは「御歩射」が訛って「オビシャ」と呼ばれています。関東では三本足の烏が描かれた的を射抜きますが、三本足の烏は太陽を意味しているとされ、年頭にこれを射抜くことで新しい年を迎えることになるといいます。歩射は、愛媛では芸予諸島(今治市、上島町)から高縄半島(今治市、旧北条市)にかけて集中しており、この地域では「弓祈祷」が一般的な呼称であり、実施される時期は正月(年頭)です。また四国中央市川之江と新宮町にもまとまって見られますが、この地域では「モモテ」と呼ばれ、2月もしくは3月に実施されています。香川県、徳島県にも同時期に「モモテ」が各地で行われており、その分布に四国中央市の「モモテ」は隣接するので、香川、徳島の影響と見ることができます。

 さて、弓祈祷の歴史をひも解いてみると、確認できる最古の文献資料は旧北条市夏目の「池内文書」の中にある「熊野谷権現社役之事」であり、明応9(1500)年に「正月10日(中略)祝はふしやの役也」とあります。「ふしや」とは「歩射」であり、中世において風早地方では弓祈祷が行われていたことがわかっています。旧北条市では小山田、猪木、庄府、米之野で弓祈祷が行われていましたが、現在では猪木でのみ行われています。

 この弓祈祷の分布や歴史は、民俗文化領域を考える上で重要となってきます。弓祈祷を伝えている芸予諸島から高縄半島では祭礼では神輿に随行する「だんじり」が登場しますが、弓祈祷が見られない旧松山市域となると「だんじり」が見られなくなります。また、四国中央市の場合でも、新宮町は祭礼の屋台が徳島県と共通し、また川之江の「太鼓台」は新居浜市のものとは異なり、観音寺市など香川県西部のものと形状が共通します。江戸時代中期以降に流行する祭礼屋台ですが、その分布が弓祈祷(歩射)の分布と共通しているのは、これが中世以来の民俗文化領域であり、現在の行政区分とは異なっていることを物語ります。その意味で風早地方の文化圏域の位置づけを考える場合、旧松山市を中心とする中予地方の文化と見るのではなく、東予地方との共通性や、中予・東予の中間領域としての特徴が見られることを考えなければなりません。

 弓祈祷が行われる目的は五穀豊穣、悪魔退散、除厄祈願などであり、地域によって異なっています。今治市岡村島のように的に「鬼」と書いて、それを射抜くことで悪魔退散とするところもありますが、弓神事の研究家である森正史氏によると、もともとは農作の豊凶を占う年占が起源であり、それが個人や地域の安穏を乱す悪疫の流行や厄除けへと変化したとされています。毎年1月6日に猪木地区で行われる弓祈祷では単に歩射儀礼だけではなく、射手を務める「お役者さん」による「かけめし」という二合半の高盛飯を食べる儀礼も行われています。これは農作の豊凶の年占であり、猪木の弓祈祷は古い意味合いを残していると考えることもできます。古い弓祈祷を現在に継承している風早地方であるが、単に弓祈祷にとどまらず様々な事象でも同様であり、ここが過去からの地域文化を色濃く伝承してきた民俗文化領域だといえるのです。